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『明治産業革命遺産』世界遺産登録

     
 
◆産業遺産とは

 産業遺産とは、特定地域の産業を支えてきた歴史的、技術的、社会的、建築学的、または科学的価値のある産業文化の遺物のことをいいます。
 産業遺産には、建物、機械、工房、工場及び製造所など、生産施設そのものだけでなく、輸送施設、生産物を消費する場所、住宅、宗教礼拝、教育など産業に関わる社会活動のために使用されるいろいろな場所も含まれます。
 
◆世界文化遺産としての価値

 日本は、幕末から僅か半世紀の間に製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業において急速な産業化を達成し、非西欧地域で最初の産業国家としての地位を確立しました。このことは、世界史的に極めて意義のある特筆すべき類稀な事象であり、この歴史的過程を時間軸に沿って示しているのが、「明治日本の産業革命遺産」です。
 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は、造船、製鉄・製鋼、石炭産業の重工業分野に西洋技術を移転する上で他に類を見ないプロセスを証明する資産群であり、非西洋地域において近代化の先駆けをなした経済大国日本の原点を訪ね、語り継いでいく上で、極めて重要な遺産群です。
 
◆明治日本の産業革命遺産の構成資産

「明治日本の産業革命遺産」は、山口県・萩や九州など8県11市に立地する23の構成資産からなるシリアルノミネーション(※)で、萩エリアには、産業技術導入の最初期の遺産群として5つの構成資産があります。

      ※シリアルノミネーションとは・・・
       広い範囲に分散する複数の資産を同じ歴史―文化群のまとまりとして関連づけ、数珠つなぎにすることにより、
       全体で顕著な普遍的価値を有するものとして推薦すること。
 
  ◇23の構成資産
   福岡県
    北九州市;中間市八幡製鐵所関連施設、官営八幡製鐵所関連施設、
    大牟田市;三池炭鉱専用鉄道敷跡、三池港、三池炭鉱宮原坑、三池炭鉱万田坑
 
   長崎県
    長崎市;小菅修船場跡、旧グラバー住宅、高島炭坑、端島炭坑、三菱長崎造船所関連施設
 
   佐賀県
    佐賀市;三重津海軍所跡
 
   熊本県
    荒尾市;三池炭鉱万田坑、三池炭鉱専用鉄道敷跡
    宇城市;三角西(旧)港
 
   鹿児島県
    鹿児島市;旧集成館(反射炉跡)、旧集成館(機械工場)、旧集成館(旧鹿児島紡績所技師館)、寺山炭窯跡、関吉の疎水溝
 
   岩手県
    釜石市;橋野鉄鉱山・高炉跡
 
   静岡県
    伊豆の国市;韮山反射炉
 
   山口県
    萩市;萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、松下村塾、萩城下町

 
◆世界遺産登録

 6月28日から7月8日の日程(現地日程)で、ドイツ(ボン)で開催されている、国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会で審議を行っていた、萩の5資産(萩反射炉、恵美須ヶ鼻造船所跡、大板山たたら製鉄遺跡、萩城下町、松下村塾)を含む「明治日本の産業革命遺産」について、日本時間の7月5日(日曜日)午後10時37分に登録が決定しました。  
 
◆萩市の明治産業遺産

◇萩反射炉(はぎはんしゃろ)《所在地;山口県萩市大字椿東4897-7》
 
     

 西洋式の鉄製大砲鋳造を目指した萩藩が、安政3年(1856)に建設した反射炉の遺跡です。
萩藩は、1855(安政2)年、すでに反射炉の操業に成功していた佐賀藩へ、藩士の山田宇右衛門らを派遣します。目的は、鉄製大砲の鋳造法習得でしたが、製砲掛が長崎に行って不在であることなどを理由に伝授を謝絶されます。
 
 そこで萩藩は、佐賀藩が欲していた萩藩発明の「砲架旋風台」(大砲の台)の模型を大工棟梁で藩士の小沢忠右衛門に持たせ、佐賀藩へ派遣しました。小沢は反射炉の見学を許され、スケッチをとり、帰ると藩にこれを提出します。
 
 萩藩では直ちに設計を開始し、藩士の村岡伊右衛門を御用掛に命じて、翌1856(安政3)年から鉄製大砲の鋳造に取り組みます。
 
 当時は鉄製大砲を建造するには、衝撃に弱い硬い鉄を粘り気のある軟らかい鉄に溶解する必要があり、その装置として反射炉を用いていました。
 
 現在残っている遺構は、反射炉の煙突にあたる部分で、高さ10.5メートルの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)です。
 
 萩反射炉は、1924(大正13)年12月に国の史跡に指定されました。国内に現存している反射炉は、静岡県の韮山と萩の2基だけであり、試験炉ではありますが、自力による近代化初期の資産として重要なものであります。
 
 
◇恵美須ヶ鼻造船所跡(えびすがはなぞうせんじょ)《山口県萩市大字椿東5159-14》


     
 
 1853(嘉永6)年、幕府はペリー来航の衝撃から、各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、翌年には萩藩に対して大船の建造を要請します。1855(安政2)年、幕府は伊豆戸田村において、ロシア人の指導のもと西洋式帆船の君沢型(スクーナー)を製造しました。
 
 それを受けて1856(安政3)年、萩藩は藩士の桂小五郎(後の木戸孝允)の軍艦製造の意見書に応じ、洋式造船技術と運転技術を学ばせるため、船大工棟梁の尾崎小右衛門を伊豆と江戸に派遣しました。
 
 尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった船大工棟梁の高崎伝蔵らとともに萩に帰り、近海を視察、小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定しました。
 
 恵美須ヶ鼻造船所跡では1856(安政3)年に萩藩最初の洋式軍艦(スクーナー型)「丙辰丸(へいしんまる)」が、1860(万延元)年2隻目の洋式軍艦(バーク型)「庚申丸(こうしんまる)」が建造されました。1隻目はロシア、2隻目はオランダの造船術が用いられており、異なる外国の技術が共存する他に類例のない造船所の遺跡であると言えます。
 なお、丙辰丸建造に際しては、萩市紫福(しぶき)の大板山(おおいたやま)たたら(国指定史跡)の鉄が使用されました。
 現在、造船所跡には地下遺構と、当時の規模の大きな防波堤が残っています。2013(平成25)年10月に国の史跡に指定されています。
 
 
◇大板山たたら製鉄遺跡(おおいたやまたたらせいてついせき)《山口県萩市大字紫福257-5》
 

     

 大板山たたら製鉄遺跡は、江戸時代の中・後期に操業された鉄の生産現場です。ここで生産された鉄は、幕末、萩藩の洋式軍艦建造に役立てられました。この遺跡は、在来の製鉄技術により洋式造船を支援したという、自力でのユニークな近代化を証明するものです。
 
 「たたら」は、日本で独特の発展をとげた伝統的な製鉄技術です。とくに中国地方は、良質な砂鉄を産出することから、江戸時代には製鉄の中心地となっていました。大板山たたら製鉄遺跡には、製鉄用の炉跡、天秤ふいご跡など関連施設の遺構が良好に残っています。
 
 これまで、大板山の「たたら」で生産された鉄が使用されたのは、萩藩が1860(万延元)年に建造した洋式軍艦「庚申丸(こうしんまる)」とされてきました。しかし最近、山口県文書館にて保管されている古文書を精査したところ、1856(安政3)年建造の「丙辰丸(へいしんまる)」に使用されたことが判明しました。いずれにせよ、萩藩は恵美須ヶ鼻(えびすがはな)造船所において、洋式軍艦の建造に一応は成功しましたが、そこで使われた技術は、製鉄をはじめ伝統的な在来技術が中心でした。
 
 このように、大板山たたら製鉄遺跡は、恵美須ヶ鼻造船所跡と関連をもつ資産であり、自力による近代化を証明するものです。 製鉄炉等の遺構がよく保存され、規模は県内最大級、2012(平成24)年9月に国の史跡に指定されました。
 

◇萩城下町(はぎじょうかまち)《山口県萩市堀内、呉服町、南古萩町ほか》


     
 
 萩城下町の成り立ちは、1600(慶長5)年、西軍の総大将として関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元によります。毛利輝元はそれまでの領地中国地方8カ国112万石から、防長2カ国36万石に削封され、1604(慶長9)年に萩の指月山に新たに居城を築くとともに、並行して城下町の建設を進めました。
 
 萩城下町は、幕末に日本が産業化を目指した当時の地域社会における政治・行政・経済をあらわす資産で、城跡・旧上級武家地・旧町人地の3地区からなっています。
 
 ここで萩藩の産業化や西洋技術の導入についての政策形成が行われ、また当時の城下町に高度な匠の技があったからこそ、日本の産業化が急速に進んだと考えられています。萩城下町は、産業化を試みた幕末の地域社会が有していた江戸時代の伝統と身分制、社会経済構造を非常によく示していることが評価されています。
 

◇松下村塾(しょうかそんじゅく)《山口県萩市大字椿東1537-1》
 

     

 萩藩校明倫館の兵学師範であった吉田松陰は21歳の時から国内各地を訪ね歩き、知識と見聞を広めます。しかし、25歳の1854(安政元)年3月、直接自分の目で西洋の実情を確かめたいとの思いから、伊豆下田沖に停泊していたペリーの黒船に弟子の金子重輔(かねこしげのすけ)とともに乗り組み、アメリカへの密航を志しますが、失敗して萩の野山獄に閉じ込められました。
 
 その後実家の杉家で謹慎生活を命じられた松陰は、1856(安政3)年3月、教えを請いに集まってきた親類や近所の若者たちに、実家の幽囚室で講義をはじめます。家族は人数が増え続けることを心配し、1857(安政4)年11月、小屋を修理して松陰に塾舎として使わせます。この8畳1室の塾舎が松下村塾です。塾舎を得た松陰は、幽囚室から移って塾生と共同生活を開始します。1858(安政5)年3月には、塾生が増えたため、10畳半の部屋を増築、塾舎は18畳余に拡充されました。
 
 萩藩は1858(安政5)年7月、松下村塾を公認しますが、同年12月、幕府政治を批判する松陰を再び野山獄に投じ、松陰主宰の松下村塾は閉鎖となりました。松陰の2つの建物での講義は、2年10ヶ月でしたが、この間に約90名の塾生を指導しました。
 
 松下村塾は、1922(大正11)年10月に、隣接する吉田松陰幽囚ノ旧宅(杉家旧宅)とともに国の史跡に指定されました。2つの史跡は、1907(明治40)年に創建された松陰神社の敷地内にあります。
 
松下村塾は、日本が近代化、産業化を成し遂げていく過程で、重要な役割を担う人材を教育した機関です。
 
 ◇日本の近代化・産業化に貢献した主な松下村塾生
高杉 晋作(たかすぎ しんさく)    奇兵隊創設、長州(四境)戦争の指揮
久坂 玄瑞(くさか げんずい)
       光明寺(こうみょうじ)党(奇兵隊の母体)結成
伊藤 博文(いとう ひろぶみ)
       初代首相(4度組閣)、明治憲法制定
山県 有朋(やまがた ありとも)
    3代首相(2度組閣)、陸軍制度創設
山田 顕義(やまだ あきよし)
       初代司法大臣、日本大学創設
野村 靖(のむら やすし) 
            内務大臣、逓信(ていしん)大臣
品川 弥二郎(しながわ やじろう) 内務大臣、信用組合・産業組合の普及
前原 一誠(まえばら いっせい)    明治政府参議、兵部大輔(ひょうぶたいふ)
正木 退蔵(まさき たいぞう)       東京職工学校(東京工業大学)初代校長
渡辺 蒿蔵(わたなべ こうぞう)    初代長崎造船局長
飯田 俊徳(いいだ としのり)       鉄道技師、逢坂山(おうさかやま)トンネル工事指揮
木梨 信一(きなし しんいち)       第百十国立銀行(山口銀行)3代頭取